2007年2月19日 (月)

もっとデータを

教育現場で何が足りないかといえば、科学的な視点だろう。
具体的な指標、詳細なデータ、明確な目的、どれももうけていない場合がほとんどである。

先の記事にも少し書いたが、子供の集中力という点に注目しても
・集中している状態とは?
・どれくらい持つのか?
・集中力が高まるメリット、デメリット
・切り替えの方法
・朝食の有無、就寝起床時間(睡眠時間)、放課後の活動の与える影響
などなど
様々なことが考えられる。

これをどのように生かすかといえば、
・授業時間は、今の授業40,45,50分+休憩10分が適切なのか
・週5日制が適切なのか
・教科による違い
・指導者による違い
・環境整備の優先順位
を把握することによって、より適切な方法が導き出せるだろう。

週5日制を導入したときもそうだったが、変えます、という声のあとに、その方がこのように学習効果が期待できます、という話はないのだ。
その効果が期待できる条件はこれとこれとこれです。それ以外の場合は、こうです、といった検証の積み重ねによって、変更されたわけではないのだ。

100ます計算や辞書引き勉強法、百人一首詠唱などは現実にこれだけの成果が上がっている、という明確な結果がそれぞれの授業の中で出ている。だから指導者も自身の正しさを疑うことなく授業を進めることができる。しかし、公教育の学習指導要領はこれだけを修めなさいという指針であって、やり方は自由裁量である。

一定レベルを達成することが目的であるなら、徹底的にデータに基づいたマニュアル教育をすべきである。
教師の自由裁量などもってのほか、子供の成長にあわせ、学習進度に合わせ徹底的にフォローしていくのだ。
もしマニュアルに問題があるのであれば、即座に反映させる柔軟性は必要だが、教員の質の向上を図るにはもっとも適切な方法であると思う。

総合学習は確かに意欲を持つ子、持たせることに成功した子にはとてもよい方法だ。しかし、指導者には並以上では不足で超人的な能力が要求される。
30人の子供たちの興味を特定分野に向け、意欲を高め、理解度を測り、相互の関係を把握しつつ、成果をだす、ということがどれだけたいへんか。おとな30人を率いたプロジェクトチームをまとめることを想像すればすこしはわかるだろうか。
そんな適性を持つ人たちばかりの集まりだろうか。先生とよばれる人たちの群れは。
人間として並程度であればじゅうぶん機能するようなしくみを構築することが持続可能な組織運営の基本であって、すべての構成員を超人として計算しなければ成立しないような計画は、計画ではなく夢想である。それが教育という失敗が許容されづらい事柄であるならなおのことではないだろうか。

今の教育現場に求められていることは、「教室の見える化」だ。
子供たちの流れ、教師の動向を、できるだけ手間なく拾い集め、具体的な改善をひとつひとつ積み重ねていく作業だ。
そのためにIT技術をどのように生かすべきだろうか。

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2007年2月15日 (木)

子供たちを育てる二つの道

子供たちの学習を測る尺度があるとすれば、「単位時間あたりの習熟度」だろう。
1分間、5分間なり、15分の間なりにどれだけ問題を解いたか、どれだけ覚えることができたか、そしてどれだけ理解できたのか。
 #ここであえて、「1時間」あたりといわない理由は後述


そのための方法論は単純に2種類。
できるだけ環境を同じくし学習進度をそろえ、同じ課題をともにこなしていく中で相乗的な効果を期待する方法。
表現は悪いが軍隊式方法。単位時間、単位人あたりの学習効果は非常に高い。


もう一つは、各個人の資質に合わせてそれぞれがそれぞれの進度で、より高度な能力を身につける方法。とりあえずカルテ方式とでもよぼう。公文式が代表例か。


どちらが優れているわけでもなく、それぞれにメリット・デメリットがある。


たとえば、軍隊式は規律で締め上げないと効果が出ない。原則ははやりの言葉で言えば「ゼロトレランス(許容度ゼロ)」。そして規律の中で生活する場合はたいへん快適。そして仲間との競争関係がプラスに働くように仕向け、お互いがお互いを磨きあう状況を作り出すことが当面の目標。
反面うまく機能しないと規律が不条理になり、競争関係がいじめとなる。
うまく機能した場合でもそれなりにいわゆる落ちこぼれが生じるので、状況に応じてフォローを行うことを含め体制を構築する必要がある。


一方、カルテ方式場合は、個人のペースで進行できるので、未達(わからないのであればその上にはいけないのだから)ということはあるが、落ちこぼれが存在しない。
いつでもどこにいても学習できる。
これは、個人学習が前提であるので連帯感を醸成しにくい、子供個人の資質、やる気に大きく左右される、ということにもつながる。


軍隊式を導入する場合は、子供を選別するために入試を行い、寮を用意し、生活リズム、親の体制までも揃える方が効果的である。なぜなら、規律ある学校という一定環境に対応できる能力がなければ、自身だけでなく周りにも悪影響を及ぼすからだ。そしてセレクションを行うのであればより早期の方が好ましいことも自明のこと。
自我が発達する前に、環境にどっぷりつけ込んだ方が順応するのだから。


「個性がなくなる?
そこまで揃えてもあふれ出すもの(違い)こそが、個性である。」
これがこのやり方を行うときの決めゼリフ。
そしてわたしもそう思う。
もっともこの方法論が一方的に正しいとも思わない。


最初に単位時間あたりの習熟度の指標について1時間あたりといわなかった理由について。
答えは単純。子供の集中力は1時間もコンスタントに持たないから。
本を読み始めたらずっととか、ゲーム、興味を持つことに対してそれ以上保つ場合は多いが、それを前提に学習要項を構築することはできない。
それよりも1分、3分、5分、10分、15分なりと区切り、その中で
最大限の力を発揮できる
>体制をつくる(軍隊式)
>状況を見極めること(カルテ式)
が指導者にとっての最初のつとめ。

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2007年2月 4日 (日)

不審者って誰のこと?

犯罪に巻き込まれる子供たちを守るために、不審者を見たら逃げる、大声を上げる、携帯を持たせる、近所の家に飛び込む、などの対策をとるように指導しているとか。
しかし、不審者ってどんな人のことのことだろうか。
子供の知らない人?
それなら、両親、祖父母など親類、先生、以外の人はすべて不審者の候補ということなのだろうか。
子供は学校と家庭だけでなく、地域によって支えられているのではないか。

まず、地域の人と子供たちの絆を再生することから始めることが必要だ。
地域との連絡を取り合って、登下校時刻の案内を行い、地域の人にその時間に外に出てもらうようにする。それもわざわざではなく、散歩(人、犬)、買い物、庭の水やり、など当たり前に外にでることをかねて外にいてもらった方が長続きする。

登下校の道筋に誰がいるのかを知ってもらってはじめてそれ以外の人が不審者として認識できるし、在宅している家がわかれば、非常時の駆け込み「子ども110番の家」とあらためてうたわなくても同様の効果が期待できる。だいいち知らない人の家に、非常時だからといってもなかなか駆け込めないし、不在だったなら問題外である。

知らない人は不審者扱いする前に、知る努力、知ってもらう努力を学校、地域、双方から行おう。

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2007年1月28日 (日)

ゆとり教育は間違いだったか?

教育で一番大切なことは、子供たちの成長を待つことだと思う。
そして待つことはもっとも指導者にとってつらく、忍耐力が必要なことだ。
教えてしまえば即座にすむことをそれぞれの子供がそれぞれ理解するまで待たなくてはならないし、自分で問題を探し出し解決していくことを目標にしていたのだから指導者が問題を与えるようでは意味がない。


ゆとり教育において何が問題であったかといえば、環境を構築せずに時間だけを与えたこと、これにつきる。
空間 静かで集中できる環境、教えたがりな大人たちから隔離し、
時間 新しい体験をあたえ感動し表現できる時間の共有
喜び、自分の興味が世界につながっていく喜び
これらのものを本来はあたえたかったのではなかったか。
しかし、導入側のPR不足と教えたがりの大人たちは、一時の停滞を許さず、本来求められた役割を果たさなかった。
そしてそれ以上に邪魔をした。
携帯電話、ゲーム機 時間を細切れにし、静かで集中できる空間と時間を奪った。何より重大なのは、孤独は罪であるとの意識をあたえたこと。社会の生き物であるヒトにとって、ヒトとつながっていることは大切なことだが、一人で思想することも同じくらい大切なことなのに。
塾通い  ただ時間を費やせばよいと体力のじゅうぶんでない子供たちに消耗戦を挑ませるようなもの。
教育スタイル 本来の目的に照らし合わせると教室の定員は20人を切る規模もしくは、補助を2〜3人つけないと成立しないにもかかわらず、費用などを理由に行わなかった。

これらの揺り戻しとして様々な意見が出ているが、求めるものが多様であるなら、方法論を論じても意味はない。
本来対立しない要素も無理に対立させることになる。
 #基礎学力の向上は何よりも優先されるべきである。けっして対立する概念ではない。

そして現在状況はますます悪化しているように見える。
本来教育とは時間のかかるものではなかったか?
早急に結論を求める私たちの方がおかしいのではないか?
そもそも私たちは何を望んでいるのか?
今問われているのはその地点を把握することではないだろうか。

ゆとり教育(wikipedia)
教育改革国民会議報告−教育を変える17の提案− H12/12/22(教育改革国民会議)
いろいろつっこみたいところはあるが、下記よりよっぽどましに見えるのは気のせいか?
教育再生への提言 H18/12/22 (日本教育再生機構)

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給食費滞納

給食費の滞納が全国で広がっているそうだ。
それも払えないのではなく、払わないのだとか。


「食」は子供の成長を促すもっとも大切な要素のひとつ。
こんなことが問題になること自体が救いがたい。
静かで集中できる時間を子供たちに与えるために、私たちができることは何であるのか、今一度考えなくてはならない。

そして、払「わない」といっている中に払「えない」人たちがいる可能性を考え子供たちに影響の少ない対処をして欲しいと願う。


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2006年11月26日 (日)

いじめについて

どこがデジタルトレンドなんだ!とは思うのだが、どうしても書いておきたい。
最近いじめによる自殺が相次いでおき、それが頻繁に報道されている。


いろいろの見方があるにしても、いじめが特別のことのように取り上げられていることと、やられたらやり返すという心構えというか態度がないから追いつめられるというようなとらえ方は正直ついて行けない。


いじめも人と接する対応の一部として認識して、その程度の問題であるぐらいに思っておかないとたぶん対処の方法が見つからないのではないか。


もともと学校なり、会社なりは必要以上に人を集めて成果の効率を高めるためにある。ここで重要なのはより多くのひとを集めるということだと思う。
多くの人間が全く同じ方向を向いたり、品行方正であるなんてことはまずあり得ない。
問題が起きて当たり前、もめ事があって当たり前である。
仲がよくなるひと、どうしても受け入れられないひと、一度も会わずに終わるひと、様々でいい。


その中で大切なのは、わかりやすく、少ない達成基準。
何点以上とれば合格、どうすれば点数がとれるのか、出席なのか、テストなのか、レポートなのか、曖昧ではなく、シンプルであればシンプルであるほどよい。


そして対人関係でも同じ。
あわないと思ったら、深入りしない。
参加を強制する場合は最小限で。
そして、次の場所があるということ。
そのためには、授業を受ける教室、教科によって別れるなり、習熟度別なり、食堂、図書館、委員会、課外活動、部活動なり、保健室、と学校におけるたくさんの役割をすこしずつ受け持ち、自分のお気に入りの場所を見つけること。


そして、学校に見つけられないのであれば、無理に学校なんて行かなくてもいいから、社会で居場所をつくるようにすればいい(といっても学校ほど簡単ではないとは思うが)。


そのときに周りはできるだけ、見て見ぬふりをして欲しいものだ。ちゃんと見ていながら、無理強いせず休みたかったら休めばいいし、いきたいならいけばいいよ、と声をかけて欲しい。
ただし、自分でいったことはちゃんと守りなさいと言う一言も添えて。
裏切ってはいけないのは自分の気持ちであり、我慢することは美徳でも何でもないといって欲しい。


反撃するときの言葉、その手足が相手に届くなら、相手を痛めるだけでなく、自分も痛い思いをする。
痛みを受け入れてでも相手に届けたいと思うのであれば、そうすればいい。
けれどそこまでして受け入れてもらわないとならないひとってそんなにたくさんいるだろうか。
わたしはそれよりも会わないなって思った時点で無理に近づかず、適切な距離をとれるようにできればほとんどの問題は起きないと思う。


ただはじめに帰るが、学校や会社は成果を求めるところであり、必要以上に人を集めているという根本的問題がここにはあるのだ。

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